シン・エヴァンゲリオン:|| - 人生の振り返りとしてのシン・エヴァ

 シン・エヴァンゲリオン、面白かったです。力業ではあったかもしれませんが、今までとは違う新たなエヴァの終わり方を受け入れています。庵野監督はじめ、すべてのエヴァに関わった皆様、ありがとう。お疲れ様でした。

 一方、いつものエヴァのように考察ブログや動画が盛り上がる中で、映画への評価が大きく分かれていることにも気づきました。シンエヴァはやはりクソ映画だった、庵野は変わってしまったと考える方、こんなメッセージ既視感しかない、言われなくてもとっくに知ってたよ、というような意見も散見されます。

note.com

 

gendai.ismedia.jp

 25年前、"社会現象"と呼ばれたエヴァ。当時のラストである、旧劇場版(1997年7月)の内容を私の解釈を添えつつ、若干乱暴ですがまとめてみます。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に - Wikipedia

  • 他人の心がわからない=怖いという原点
  • そこから起こる他者との衝突、辛い現実、苦しみ
  • それに抗うため、他者との境界をなくし一つになることによる幸せ、という人類補完計画が提示
  • 補完計画の進行中、他者の存在に希望を見出そうとするシンジ。
  • 「生きてさえいれば希望はある、幸せになるチャンスはどこにでもある」というユイの言葉。
  • 人類補完計画を否定し、再び自他が分かれた世界を望む
  • 結果、再び現実へ。浜辺で最後に残ったアスカの首を締めて「気持ち悪い」と否定される。絶望を否定し、希望を願って選んだ結果が、結局さらなる絶望を残して終劇

 他者とうまくやっていけない絶望だらけの世界の中で、よくわからない大人たち(ゼーレ、ネルフ、ゲンドウら)の思惑に巻き込まれてきたシンジ。サードインパクトのトリガーとなり、自他の境界がなくなることによる救済(人類補完計画)が進行する中、それでも他者に希望を見出そうとし、人類補完計画をやめることを選ぶ。他者が存在する元の世界を望んだ。

 しかし、その後戻ってきた現実世界の浜辺で、他者であるアスカの首を絞め、彼女から「気持ち悪い」と否定される。希望を願って戻ってきた世界で、結局うまく行動できずに絶望の中幕を閉じる。

 この旧劇の、よく言われる、ある種のビルドゥングスロマンの否定*1による終劇の形が、十代だった自分の中で衝撃的だったのを覚えています。

 こうした絶望のリアリティはシンエヴァの内容では、旧世代としてのゲンドウからの独り語りではっきり言及されるものの、それに対峙するシンジが完全勝利する形で否定されました。

 シンジはゲンドウと対峙するまでの間に多くの"成長"を経ています。例を挙げると、

  • "優しい"社会、他人との関わりで、傷ついた心が癒されうる(第3村で自分を好きでいてくれるアヤナミ
  • 他人の考え方を鏡にして自分自身を見直し、自己決定する(トウジ、ケンスケら親しい他者とのコミュニケーション)
  • 過去の失敗の克服や、人間関係の修復は可能である(出発前に立ち寄ったアスカとの和解)
  • 未来への希望を残す努力の形(ミサトの息子カジリョウジの存在、ヴィレ本来の目的、種の保存計画)
  • "落とし前をつける"ことの選択
  • "自分の弱さを認める"ことを父ゲンドウに伝える

 こうしたシンジの"成長"までの演出が、これでもかというばかりに散りばめられ、肯定的に描かれています。極論すると、これらシンエヴァの「他者を受け入れ、コミュニケーションする中で和解したり、希望のために過去を精算したりするのが大人であり、我々にはそれができるんだ」というメッセージ。旧劇のエヴァンゲリオンと比べると、極めて陳腐なメッセージのように感じるのは自分だけではないようです。

 このメッセージをどのように感じるか、がシンエヴァの評価が分かれる理由の根本にあると思います。シンエヴァのメッセージを受け入れる人=肯定派、受け入れない(受け入れがたい)人=否定派の構図です。

 ではなぜ、そうした評価の二分化が起こるのか。このことを「感情資本」という概念を用いて説明されている記事を見つけました。

gendai.ismedia.jp

感情資本とは、文化資本のひとつである身体的資本として、感情管理の特定のスタイルを「自然に」身につけた人間が、より有利な社会的位置を「個人的に」獲得するかにみえるような事態を招くものである。それはある階層独特の資本としてあり、そのため、その階層の再生産に役立つことになる。(『希望の社会学 我々は何者か、我々はどこへ行くのか』山岸健・浜日出夫・草柳千早編、三和書籍) 

『シン・エヴァ』鑑賞後の「爽快感」と「置いてきぼり感」の二極化の理由の一つは、「失われた20年」を上手くクリアすることができた・できなかった人々の隔絶ともいえますが、感情資本に恵まれた者・恵まれなかった者の差異に対する認識の有無にあるともいえそうです。もし棚ぼたでしかあり得ないのであれば、それは運が良かったという話でしかないからです。

 私自身は、シンエヴァを見たとき、出てくるメッセージがどれも極めて陳腐だなと感じましたが、それを肯定的に受け入れていた自分に気づきました。それはつまり、この記事でいう感情資本が豊かな「勝ち組」側の意見、ということになるのかもしれません。25年間で自分の身の回りに起こった変化、それを受け入れたり乗り越えたりした個人的な経験と今回の映画全体を通した変化を重ねて、過去を肯定された気分になるという楽しみ方ができたのかもしれません。陳腐なメッセージを素直に受け入れる、つまらない大人になったような気がしてなんだか寂しくもあります。

 そう考えると、今回のシン・エヴァについて語ることは、その人個人の経験を語ることと似ています。この25年間、お前は何をやっていたんだ?シンジもいろいろあったが成長した、お前は?と突きつけられるような構図です。

 「俺もいろいろあって頑張った、今は就職して子供もいるんだ」などと応えるのか、それとも「お前が成長したからそれがなんだ、説教するな。お前の成功体験なんて俺にはなんの価値もない」と反応するのか。

 もちろんそんな単純な賛否だけでなく、様々な意見が出てきて然るべきだと思います。エヴァを語ることが自分自身を語ることにつながるとしたら、人生の振り返りができるいい機会かもしれません。

 

 

以下下書き((この下書きは、映画の内容がうろ覚えだったのであらすじを覚えておくためにまとめていた物です。映画の内容を思い出せない人はこんな内容だったなと思い出してもらうのに使ってください。

 

・テーマ、論点、結論の要旨

1. テーマ : シン・エヴァンゲリオン(2021)で表現されたもの(作品論)、考えられるメッセージ性

2.論点 : メッセージをどのように解釈するか、各論点の具体例とその意義

3. 結論: 解釈の意義、価値のまとめ

(以下、映画を見たことがある人向けの文章[=ネタバレあり]) 

1. テーマ : シン・エヴァンゲリオン(2021)で表現されたもの(作品論)、メッセージ

ストーリーパートまとめ(シン・エヴァンゲリオン公式パンフレット17p脚注より)

  1. アバン1 : メインタイトル前のパリ旧市街を舞台にしたパート
  2. アバン2: メインタイトルからシンジたちがケンスケに出会うまで
  3. Aパート: 第3村を舞台にしたパート
  4. Bパート: シンジたちがヴンダーに戻ってから発進まで
  5. Cパート: ヴンダーの発進からミサトがシンジを初号機に送り出すまで
  6. Dパート: 以降から終劇まで 
小まとめ1: アバン1 -アバン2 - Aパート 

 前半のこのパートでは、ケンスケ・トウジら旧友との再会、ニアサードインパクトの影響から復興しようとする世界、田舎コミュニティで社会生活を学ぶアヤナミレイ(仮称)の姿。今までのエヴァとは全く違う日常が描かれ、新たな世界を知るシンジとレイ。しかし一方で、置いていかれた二人とは対照的に新しい世界に順応した人々。日常にある小さな幸せが描かれました。

 コミュニティから優しさを学んだアヤナミを通して、シンジが立ち上がるまでのパート。大人になったトウジやケンスケから、"落とし前をつける"ことや、ミサトの息子カジリョウジが生活していることを知り、生活に順応していくシンジ。

 そんな中、アヤナミが目の前から消え、ゲンドウの不穏な動きとそれを止めようとするミサトらの存在を思い出すシンジ。「いつまでもここにいてもいいんだぞ」という優しい言葉をかけられるも、それを選ばず、ヴィレに戻るアスカについて行き戦場に戻る(=トウジが話していた、「落とし前をつける」)決意をするシンジ。

 

考えられるメッセージその1
  • "優しい"社会、他人との関わりが、傷ついた心を癒しうる
  • 他人の考え方を鏡にして自分自身を見直し、自己決定する(=成長する)

 あのキャラクターが生きていた、子どもがいた、あのアヤナミが田植えをしている!というような新情報、演出による衝撃はあったものの、そこからみられるメッセージだけを抜き出そうとすると、よく言えばシンプル、悪く言えば極めて陳腐なものであるのがわかります。

 おそらくこの陳腐さこそが「そんなこと言われなくてもわかっているよ」という観客の反発を生むかもしれないな、と感じます。 

小まとめ2: Bパート: シンジたちがヴンダーに戻ってから発進まで

 アヤナミがいなくなり泣きはらした顔のシンジ。ここに残ってもいいんだぞ、というケンスケの言葉を受けつつも、自らの意志でヴンダーに搭乗することを決めます。

 アスカと共にヴンダーに戻るシンジ。鈴原サクラとの再会。泣いて怒られ「あんた女房か」とアスカにつっこまれます。ヴンダーからは変わらず拘束を受ける。ただし、シンジの首にDSSチョーカーは付けられていません。

 アスカの帰還とマリとの再会。エヴァパイロットがリリンから危険視されていることを示す爆薬が増えています。

 R. Kajiから送られたスイカと思われる大きなコンテナ。ヴンダー本来の役割?である種の保存を行うための倉庫にいるミサトとリツコの会話。この時はシンジと会わず、しかし本心では喜んでいるのではとリツコに指摘されるミサト。

 ヴンダーのオペレーターたちの会話。シンジの処遇について納得のいかないミドリ。誰のおしっこかもわからない再生水。「綺麗にすればいいと思っている、そんなわけない」 

 セカンドインパクト発生の地で準備を進めるネルフ、ゲンドウと冬月。13号機の反応。儀式の開始を検知するヴンダー、25分後に発進準備を決めるミサト。

 アスカとレイが無重力の通路を移動。アスカの寄り道、マリと共にシンジのところへ。マリの「だーれだ」、からの自己紹介。アスカがシンジに、なぜ私がQの再会時に殴ろうとしたのかを再度尋ねる。3号機で使徒に取り込まれたアスカを、助けることも殺すことも判断しなかったから、という回答。アスカ納得。

 アスカから、あのときは多分シンジのことが好きだったんだと思う、という告白。吹っ切れたようなアスカ、マリとシンジのやりとり。

考えられるメッセージその2
  • 過去の失敗の克服や、人間関係の修復は可能である(シンジとアスカの和解)
  • 未来への希望を残す努力をするべき(種の保存計画)

 このパートでは、シンジの社会復帰の始まりが描かれています。第3村で元気を取り戻したシンジが前に向き始め、最終的にアスカと語る機会を得て、和解します。

 ヴンダーの"本来の役割"である地球上の種の保存についても言及され、多くの種と、R.Kajiを象徴とする未来の希望を残すことが肯定的に描かれます。

 一方、過去に迷惑をかけられたヴンダー乗組員からの反応は冷たいもの。シンジの復帰を肯定的に受け止めている人間ばかりではなく、次のCパートではっきりする過去に苦しんだ人たちの複雑な心情も顕になります。 

Cパート: ヴンダーの発進から、ミサトがシンジを初号機に送り出すまで

 ヴンダーの発進。冬月の待ち伏せる戦艦とのバトル。エヴァ改2号機と8号機の発進。骸骨型の大量のエヴァ量産機らを駆逐しながらなんとか13号機のところにたどり着く改2号機。13号機の覚醒を無効化しようとするアスカ、ATフィールドに拒まれ使徒化を決断。しかしそれを待ち受けていた13号機がアスカを取り込む。式波型のオリジナル?に取り込まれるアスカ。アディショナルインパクトの始まり。

 ほぼ同時に、ヴンダーにネルフエヴァ(アダムスの器?9号機?)が取り付く。ヴンダーから初号機を奪還するため降り立つゲンドウと、対峙するミサトとリツコ。ゲンドウはリツコの銃弾を頭に受けるも、ネブカドネザルの鍵ですでに人ではなくなっていることが発覚。人類補完計画の内容と、それに対するヴィレ・ネルフの受け取り方の違いを話し合う。シンジが搭乗するも、そのまま初号機を運び去るゲンドウ。

 シンジとミサトの会話。"落とし前をつける"というシンジの決意を受け入れ、和解するミサトたち。一方、ミドリとサクラから、シンジがエヴァに乗ることへの強い拒否感と抵抗が暴露される。サクラの銃弾をミサトが守り、ミサトのシンジへの信頼、シンジが再びエヴァでゲンドウを止めるほかどうしようもないことを受け入れるミドリとサクラ。

 迎えに来たマリの8号機とともに、マイナス宇宙へシンジがゲンドウを追いかけるシーンに入ります。

考えられるメッセージその3
  • "落とし前をつける"こと=大人の解決策
  • "明日生きることだけを考えよう"

 シンジが言う"落とし前をつける"という言葉には、二つの意味があります。一つは、自分が過去に起こした不始末(エヴァ搭乗によるインパクト)の責任を取ること、もう一つは自分の父が起こそうとする新たな災害(アディショナルインパクト)を止めるということ。旧劇ではまったく見られなかったこの"落とし前をつける"という意志が、周りからの反発を描きつつも、一貫して肯定的に描かれていることが見てとれました。

 一方このパートは、社会を動かすことができる主人公格(シンジ、ミサト、ゲンドウ)と、それに振り回される周囲の人間の格差が顕になったようにも受け取れます。最終的にエヴァのない世界となり、ハッピーエンドの様相になることが見た後にわかりますが、結局主人公(シンジ)とラスボス(ゲンドウ)に振り回される登場人物たちは自分の意志を介入させる機会が失われており、今回のラストでもうやむやなまままったく触れられていない状態です(尺の都合や演出上の優先度が低かったのかもとも思いますが)。

Dパート: 以降から終劇まで

マリと合流し、マイナス宇宙へ。初号機の中にワープするシンジ。髪の伸びた綾波との再会。初号機を奪い返し、13号機のゲンドウと対峙するシンジ。エヴァ同士の最後の戦い。

 マイナス宇宙は人間には認識できず、最初は二人の精神世界背景の中で物理的に戦うシーン。しかしそこではゲンドウには一切勝てず、これは強さを競う戦いではないことが示され、二人の対話パートに移る。ゲンドウの内面の吐露シーン。社会との関わりが苦手であったこと、知識とピアノが唯一の癒しであったこと、ユイに対する愛情、シンジにどう接すれば良いかわからなかった困惑などが初めて描かれました。

 悲願であったユイとの邂逅が実現できず、絶望するゲンドウ。シンジから自分の弱さを認めることを説かれ、ゲンドウのインパクト主導権がシンジに移ります。

 同時刻頃、ヴィレのメンバーがガイウスの槍の準備に奔走、ミサトと8号機のマリが残り、他のヴィレのメンバーは脱出。巨大な白いアヤナミエヴァイマジナリー)に突入、マイナス宇宙のシンジへガイウスの槍を届けます。

 アスカ、カヲル、レイらの救済シーン。ガイウスの槍によるネオンジェネシスの始まり。ガイウスの槍でエヴァを貫き、自らを犠牲にエヴァのない世界を作ろうとするシンジ。"その役割をシンジから引き受けるために"初号機の中に残っていたユイと、ユイを見つけた13号機のゲンドウ。二人の邂逅の姿を最後に見ながら、新たな世界に移りゆくシンジ。

 砂浜に残されるシンジ。絵柄が絵コンテのような、作り物の世界であることを示唆する演出を混じえ、迎えにきたマリが”間に合った"場面。

 エンディング。現実の日本の駅ホーム内にいる大人姿のシンジ。カヲルとレイのような二人がホームの向こう側にいる。同じく成長した姿のマリがシンジを迎えに来ます。DSSチョーカーを外し、手を繋いで駅の外へ走り去る二人。

 

 

 

 

*1:著者の理解では、主人公の成長を通して表現される物語のハッピーエンドの形式、程度の意味。詳細は教養小説 - Wikipediaを参考