妻が亡くなって半年目の記録。忘れられない気持ちと、忘れようとする身体。
( %s/妻/ふみ/g )
半年前の今くらいの時間、ふみとの最期のLINEのやりとりが始まった。
今、少々複雑な気持ちを整理するために、ふみのことを思い出している。
こうやって意識的に思い出すといつも涙が出るが、普段の生活で思い出すことはあまりない。
もともとふみがいなくて当たり前だった時間や場所、たとえば仕事中や会社の人との飲み会、そこにふみがいないのは当たり前なので、そんなときに思い出すことはあまりない。
家に帰った時、一緒に入ったことのあるお店の前を通った時、デートしたことがある場所をテレビで見た時、寝る前。。。過去の思い出につながるとき、無意識にふみのことを考える。
しかしそんなときがあっても、最近は涙が出るほどつらくなることはほぼない。
そういったことを考えようとするとつらくなることはもうわかりきっている。「そういえばふみがあのとき。。。」と考え始めた瞬間、もう別の冷静な自分がその思考を邪魔しようとする。それを考えてもつらくなるだけだ、考えるな、と。そうしてふみのことを考える時間はどんどん少なくなっていく。
思い出したい自分と、忘れさせようとする自分がいる。
思い出すことがストレスになるなら、思い出さないことが「健康」で、「正しい」こと。極めて合理的である。
だからたまには、非合理的な、不健康な思考を外に出してみたい。そう思って今ブログを書いている。
# 記憶の仕組みについて
最近は論文や専門書を漁らなくても、ぐぐったらすぐそれっぽい記事が出てくる。
以下の記事はまだ出典が乗っているだけ(ほんの幾分)マシだが、何を根拠に書かれているのか誰が書いたのかわからない記事をすぐ引用するのは本当は避けたい。
2-7 忘れたいことを忘れる指示忘却
忘れるように努力することによって、特定の記憶をブロックすることは可能です。
必要なことは覚えておかないといけませんが、必要もないのにいつまでも覚えておくのは記憶効率が悪くなってしまいます。
また、積極的に忘れてしまいたい記憶というものもあります。
これも実験により、「忘れるように」と指示された事柄は、覚えるようにと指示された事柄よりも記憶の混乱が生じることが実証されており、意図的な忘却が可能であることがわかっています。
例えば、職場に行くと辛い経験を思い出すという人は、職場に行ってもその経験を思い出さないように努力することで、実際に思い出しにくくなるのです。
自分にとってのふみはまさにこの「意図的な忘却」にあたる気がする。
正直に言うと忘れたくないし、今でもふみに会いたい。必要か必要でないかと言われれば間違いなく必要な記憶で、ふみがいなければ今の自分はなかったと思う。
2-5 抑圧説
無意識のうちに不快な記憶を排除する心理メカニズムを「抑圧」と言います。
例えば中学生時代はいじめにあって暗い時期を過ごした人は、中学生時代の思い出をあまりもっていないことが多いのです。逆に、それ以前の幼少期のことはよく覚えていたりします。
人間は、思い出すことによって恐怖や不安などを感じさせる事柄を、意識から排除して自分を守ろうとするのです。
と同時に、ふみは自分にとって辛い記憶になってしまっている。ふみの存在が「不快」であるという説明には断固として反対するが、思い出すとつらくなることは否定できない。
こうやって自分がふみのことを抑圧してしまうことを、本当に申し訳なく思う。
# griefについて
大切な人を失ったときに起こる深い悲しみをグリーフと言います
■ 私たちにできることとは?
グリーフの過程で最も大切なことは、自分のグリーフを認識し、何らかの形で気持ちを表現することです。そのためにできる方法をいくつかご紹介します。
・定期的にスーパービジョン(※)を受ける
・日記をつける
・音楽やアートを通じて気持ちを表現する
・信頼できる同僚に気持ちを打ち明ける
・「自分のための時間」をつくり、好きなことをする
・健康的な食事、充分な睡眠、適度な運動を心がける
(※専門家からの支援)
自分は日常的にグリーフに接するようなプロフェッショナルではないが、プロフェッショナルグリーフに対する知見はとても参考になる。
日記を書くことはあまり習慣になっていないものの、たまにこうやってoutputすることは悪くないと思う。
# 孤独について
孤独であることがかっこいいという謎の価値観は、厨二病という言葉が今ほど市民権をもつ以前からあったようだ。
自分は孤独がかっこいいとは思わないが、孤独とは反対の「群れる」ことに対する嫌悪感はなかったというと嘘になる。大して興味ない話題に相槌を打ったり、組織の中で良好な関係を維持する必要があると言うだけで人に近づいたり近づかれたりするのは正直好きではない。ふみも似たようなところがあった気がする。
しかしながら、上記のような「孤独という病」を避けるためのリスクヘッジとして、浅く広い人間関係が有効であるという事実は認めざるを得ない。少数の人間だけと深い信頼関係を持つことは、そこがなくなってしまうと一気に「孤独という病」が襲いかかってくるという大きなリスクを負っていることになる。浅く広い交友関係を、少なくとも表面的だけでも身につけることを、「技術」として体系づけて教育する仕組みがあってもいいかもしれない。
妻を忘れたくない気持ち
ふみがいなくなって半年が経つ
ふみを忘れたくない
ふみが好きだった場所に行きたい
一人では行きたくない
ふみと一緒に寝たい
ふみと話がしたい
くだらない話や、真面目な話がしたい
ふみとゲームがしたい
ふみと家でぐだぐだしたい
ふみとデートしたい
ふみと旅行がしたい
一緒に漫画の感想を言い合いたい
自分の意見を批判して欲しい
変な服かどうかみてほしい
議論がしたい
一緒にでかけたい
ふみの好きなものを食べに行きたい
寒い季節に寒いところに行って、寒いねっていいたい
暑い時に暑いところに行って、あついー、っていいたい
一緒にいたい
やっぱり涙が出る。