シン・エヴァンゲリオン:|| - 人生の振り返りとしてのシン・エヴァ
シン・エヴァンゲリオン、面白かったです。力業ではあったかもしれませんが、今までとは違う新たなエヴァの終わり方を受け入れています。庵野監督はじめ、すべてのエヴァに関わった皆様、ありがとう。お疲れ様でした。
一方、いつものエヴァのように考察ブログや動画が盛り上がる中で、映画への評価が大きく分かれていることにも気づきました。シンエヴァはやはりクソ映画だった、庵野は変わってしまったと考える方、こんなメッセージ既視感しかない、言われなくてもとっくに知ってたよ、というような意見も散見されます。
25年前、"社会現象"と呼ばれたエヴァ。当時のラストである、旧劇場版(1997年7月)の内容を私の解釈を添えつつ、若干乱暴ですがまとめてみます。
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に - Wikipedia
- 他人の心がわからない=怖いという原点
- そこから起こる他者との衝突、辛い現実、苦しみ
- それに抗うため、他者との境界をなくし一つになることによる幸せ、という人類補完計画が提示
- 補完計画の進行中、他者の存在に希望を見出そうとするシンジ。
- 「生きてさえいれば希望はある、幸せになるチャンスはどこにでもある」というユイの言葉。
- 人類補完計画を否定し、再び自他が分かれた世界を望む
- 結果、再び現実へ。浜辺で最後に残ったアスカの首を締めて「気持ち悪い」と否定される。絶望を否定し、希望を願って選んだ結果が、結局さらなる絶望を残して終劇
他者とうまくやっていけない絶望だらけの世界の中で、よくわからない大人たち(ゼーレ、ネルフ、ゲンドウら)の思惑に巻き込まれてきたシンジ。サードインパクトのトリガーとなり、自他の境界がなくなることによる救済(人類補完計画)が進行する中、それでも他者に希望を見出そうとし、人類補完計画をやめることを選ぶ。他者が存在する元の世界を望んだ。
しかし、その後戻ってきた現実世界の浜辺で、他者であるアスカの首を絞め、彼女から「気持ち悪い」と否定される。希望を願って戻ってきた世界で、結局うまく行動できずに絶望の中幕を閉じる。
この旧劇の、よく言われる、ある種のビルドゥングスロマンの否定*1による終劇の形が、十代だった自分の中で衝撃的だったのを覚えています。
こうした絶望のリアリティはシンエヴァの内容では、旧世代としてのゲンドウからの独り語りではっきり言及されるものの、それに対峙するシンジが完全勝利する形で否定されました。
シンジはゲンドウと対峙するまでの間に多くの"成長"を経ています。例を挙げると、
- "優しい"社会、他人との関わりで、傷ついた心が癒されうる(第3村で自分を好きでいてくれるアヤナミ)
- 他人の考え方を鏡にして自分自身を見直し、自己決定する(トウジ、ケンスケら親しい他者とのコミュニケーション)
- 過去の失敗の克服や、人間関係の修復は可能である(出発前に立ち寄ったアスカとの和解)
- 未来への希望を残す努力の形(ミサトの息子カジリョウジの存在、ヴィレ本来の目的、種の保存計画)
- "落とし前をつける"ことの選択
- "自分の弱さを認める"ことを父ゲンドウに伝える
こうしたシンジの"成長"までの演出が、これでもかというばかりに散りばめられ、肯定的に描かれています。極論すると、これらシンエヴァの「他者を受け入れ、コミュニケーションする中で和解したり、希望のために過去を精算したりするのが大人であり、我々にはそれができるんだ」というメッセージ。旧劇のエヴァンゲリオンと比べると、極めて陳腐なメッセージのように感じるのは自分だけではないようです。
このメッセージをどのように感じるか、がシンエヴァの評価が分かれる理由の根本にあると思います。シンエヴァのメッセージを受け入れる人=肯定派、受け入れない(受け入れがたい)人=否定派の構図です。
ではなぜ、そうした評価の二分化が起こるのか。このことを「感情資本」という概念を用いて説明されている記事を見つけました。
感情資本とは、文化資本のひとつである身体的資本として、感情管理の特定のスタイルを「自然に」身につけた人間が、より有利な社会的位置を「個人的に」獲得するかにみえるような事態を招くものである。それはある階層独特の資本としてあり、そのため、その階層の再生産に役立つことになる。(『希望の社会学 我々は何者か、我々はどこへ行くのか』山岸健・浜日出夫・草柳千早編、三和書籍)
『シン・エヴァ』鑑賞後の「爽快感」と「置いてきぼり感」の二極化の理由の一つは、「失われた20年」を上手くクリアすることができた・できなかった人々の隔絶ともいえますが、感情資本に恵まれた者・恵まれなかった者の差異に対する認識の有無にあるともいえそうです。もし棚ぼたでしかあり得ないのであれば、それは運が良かったという話でしかないからです。
私自身は、シンエヴァを見たとき、出てくるメッセージがどれも極めて陳腐だなと感じましたが、それを肯定的に受け入れていた自分に気づきました。それはつまり、この記事でいう感情資本が豊かな「勝ち組」側の意見、ということになるのかもしれません。25年間で自分の身の回りに起こった変化、それを受け入れたり乗り越えたりした個人的な経験と今回の映画全体を通した変化を重ねて、過去を肯定された気分になるという楽しみ方ができたのかもしれません。陳腐なメッセージを素直に受け入れる、つまらない大人になったような気がしてなんだか寂しくもあります。
そう考えると、今回のシン・エヴァについて語ることは、その人個人の経験を語ることと似ています。この25年間、お前は何をやっていたんだ?シンジもいろいろあったが成長した、お前は?と突きつけられるような構図です。
「俺もいろいろあって頑張った、今は就職して子供もいるんだ」などと応えるのか、それとも「お前が成長したからそれがなんだ、説教するな。お前の成功体験なんて俺にはなんの価値もない」と反応するのか。
もちろんそんな単純な賛否だけでなく、様々な意見が出てきて然るべきだと思います。エヴァを語ることが自分自身を語ることにつながるとしたら、人生の振り返りができるいい機会かもしれません。
以下下書き((この下書きは、映画の内容がうろ覚えだったのであらすじを覚えておくためにまとめていた物です。映画の内容を思い出せない人はこんな内容だったなと思い出してもらうのに使ってください。
・テーマ、論点、結論の要旨
1. テーマ : シン・エヴァンゲリオン(2021)で表現されたもの(作品論)、考えられるメッセージ性
2.論点 : メッセージをどのように解釈するか、各論点の具体例とその意義
3. 結論: 解釈の意義、価値のまとめ
(以下、映画を見たことがある人向けの文章[=ネタバレあり])
1. テーマ : シン・エヴァンゲリオン(2021)で表現されたもの(作品論)、メッセージ
ストーリーパートまとめ(シン・エヴァンゲリオン公式パンフレット17p脚注より)
- アバン1 : メインタイトル前のパリ旧市街を舞台にしたパート
- アバン2: メインタイトルからシンジたちがケンスケに出会うまで
- Aパート: 第3村を舞台にしたパート
- Bパート: シンジたちがヴンダーに戻ってから発進まで
- Cパート: ヴンダーの発進からミサトがシンジを初号機に送り出すまで
- Dパート: 以降から終劇まで
小まとめ1: アバン1 -アバン2 - Aパート
前半のこのパートでは、ケンスケ・トウジら旧友との再会、ニアサードインパクトの影響から復興しようとする世界、田舎コミュニティで社会生活を学ぶアヤナミレイ(仮称)の姿。今までのエヴァとは全く違う日常が描かれ、新たな世界を知るシンジとレイ。しかし一方で、置いていかれた二人とは対照的に新しい世界に順応した人々。日常にある小さな幸せが描かれました。
コミュニティから優しさを学んだアヤナミを通して、シンジが立ち上がるまでのパート。大人になったトウジやケンスケから、"落とし前をつける"ことや、ミサトの息子カジリョウジが生活していることを知り、生活に順応していくシンジ。
そんな中、アヤナミが目の前から消え、ゲンドウの不穏な動きとそれを止めようとするミサトらの存在を思い出すシンジ。「いつまでもここにいてもいいんだぞ」という優しい言葉をかけられるも、それを選ばず、ヴィレに戻るアスカについて行き戦場に戻る(=トウジが話していた、「落とし前をつける」)決意をするシンジ。
考えられるメッセージその1
- "優しい"社会、他人との関わりが、傷ついた心を癒しうる
- 他人の考え方を鏡にして自分自身を見直し、自己決定する(=成長する)
あのキャラクターが生きていた、子どもがいた、あのアヤナミが田植えをしている!というような新情報、演出による衝撃はあったものの、そこからみられるメッセージだけを抜き出そうとすると、よく言えばシンプル、悪く言えば極めて陳腐なものであるのがわかります。
おそらくこの陳腐さこそが「そんなこと言われなくてもわかっているよ」という観客の反発を生むかもしれないな、と感じます。
小まとめ2: Bパート: シンジたちがヴンダーに戻ってから発進まで
アヤナミがいなくなり泣きはらした顔のシンジ。ここに残ってもいいんだぞ、というケンスケの言葉を受けつつも、自らの意志でヴンダーに搭乗することを決めます。
アスカと共にヴンダーに戻るシンジ。鈴原サクラとの再会。泣いて怒られ「あんた女房か」とアスカにつっこまれます。ヴンダーからは変わらず拘束を受ける。ただし、シンジの首にDSSチョーカーは付けられていません。
アスカの帰還とマリとの再会。エヴァパイロットがリリンから危険視されていることを示す爆薬が増えています。
R. Kajiから送られたスイカと思われる大きなコンテナ。ヴンダー本来の役割?である種の保存を行うための倉庫にいるミサトとリツコの会話。この時はシンジと会わず、しかし本心では喜んでいるのではとリツコに指摘されるミサト。
ヴンダーのオペレーターたちの会話。シンジの処遇について納得のいかないミドリ。誰のおしっこかもわからない再生水。「綺麗にすればいいと思っている、そんなわけない」
セカンドインパクト発生の地で準備を進めるネルフ、ゲンドウと冬月。13号機の反応。儀式の開始を検知するヴンダー、25分後に発進準備を決めるミサト。
アスカとレイが無重力の通路を移動。アスカの寄り道、マリと共にシンジのところへ。マリの「だーれだ」、からの自己紹介。アスカがシンジに、なぜ私がQの再会時に殴ろうとしたのかを再度尋ねる。3号機で使徒に取り込まれたアスカを、助けることも殺すことも判断しなかったから、という回答。アスカ納得。
アスカから、あのときは多分シンジのことが好きだったんだと思う、という告白。吹っ切れたようなアスカ、マリとシンジのやりとり。
考えられるメッセージその2
- 過去の失敗の克服や、人間関係の修復は可能である(シンジとアスカの和解)
- 未来への希望を残す努力をするべき(種の保存計画)
このパートでは、シンジの社会復帰の始まりが描かれています。第3村で元気を取り戻したシンジが前に向き始め、最終的にアスカと語る機会を得て、和解します。
ヴンダーの"本来の役割"である地球上の種の保存についても言及され、多くの種と、R.Kajiを象徴とする未来の希望を残すことが肯定的に描かれます。
一方、過去に迷惑をかけられたヴンダー乗組員からの反応は冷たいもの。シンジの復帰を肯定的に受け止めている人間ばかりではなく、次のCパートではっきりする過去に苦しんだ人たちの複雑な心情も顕になります。
Cパート: ヴンダーの発進から、ミサトがシンジを初号機に送り出すまで
ヴンダーの発進。冬月の待ち伏せる戦艦とのバトル。エヴァ改2号機と8号機の発進。骸骨型の大量のエヴァ量産機らを駆逐しながらなんとか13号機のところにたどり着く改2号機。13号機の覚醒を無効化しようとするアスカ、ATフィールドに拒まれ使徒化を決断。しかしそれを待ち受けていた13号機がアスカを取り込む。式波型のオリジナル?に取り込まれるアスカ。アディショナルインパクトの始まり。
ほぼ同時に、ヴンダーにネルフのエヴァ(アダムスの器?9号機?)が取り付く。ヴンダーから初号機を奪還するため降り立つゲンドウと、対峙するミサトとリツコ。ゲンドウはリツコの銃弾を頭に受けるも、ネブカドネザルの鍵ですでに人ではなくなっていることが発覚。人類補完計画の内容と、それに対するヴィレ・ネルフの受け取り方の違いを話し合う。シンジが搭乗するも、そのまま初号機を運び去るゲンドウ。
シンジとミサトの会話。"落とし前をつける"というシンジの決意を受け入れ、和解するミサトたち。一方、ミドリとサクラから、シンジがエヴァに乗ることへの強い拒否感と抵抗が暴露される。サクラの銃弾をミサトが守り、ミサトのシンジへの信頼、シンジが再びエヴァでゲンドウを止めるほかどうしようもないことを受け入れるミドリとサクラ。
迎えに来たマリの8号機とともに、マイナス宇宙へシンジがゲンドウを追いかけるシーンに入ります。
考えられるメッセージその3
- "落とし前をつける"こと=大人の解決策
- "明日生きることだけを考えよう"
シンジが言う"落とし前をつける"という言葉には、二つの意味があります。一つは、自分が過去に起こした不始末(エヴァ搭乗によるインパクト)の責任を取ること、もう一つは自分の父が起こそうとする新たな災害(アディショナルインパクト)を止めるということ。旧劇ではまったく見られなかったこの"落とし前をつける"という意志が、周りからの反発を描きつつも、一貫して肯定的に描かれていることが見てとれました。
一方このパートは、社会を動かすことができる主人公格(シンジ、ミサト、ゲンドウ)と、それに振り回される周囲の人間の格差が顕になったようにも受け取れます。最終的にエヴァのない世界となり、ハッピーエンドの様相になることが見た後にわかりますが、結局主人公(シンジ)とラスボス(ゲンドウ)に振り回される登場人物たちは自分の意志を介入させる機会が失われており、今回のラストでもうやむやなまままったく触れられていない状態です(尺の都合や演出上の優先度が低かったのかもとも思いますが)。
Dパート: 以降から終劇まで
マリと合流し、マイナス宇宙へ。初号機の中にワープするシンジ。髪の伸びた綾波との再会。初号機を奪い返し、13号機のゲンドウと対峙するシンジ。エヴァ同士の最後の戦い。
マイナス宇宙は人間には認識できず、最初は二人の精神世界背景の中で物理的に戦うシーン。しかしそこではゲンドウには一切勝てず、これは強さを競う戦いではないことが示され、二人の対話パートに移る。ゲンドウの内面の吐露シーン。社会との関わりが苦手であったこと、知識とピアノが唯一の癒しであったこと、ユイに対する愛情、シンジにどう接すれば良いかわからなかった困惑などが初めて描かれました。
悲願であったユイとの邂逅が実現できず、絶望するゲンドウ。シンジから自分の弱さを認めることを説かれ、ゲンドウのインパクト主導権がシンジに移ります。
同時刻頃、ヴィレのメンバーがガイウスの槍の準備に奔走、ミサトと8号機のマリが残り、他のヴィレのメンバーは脱出。巨大な白いアヤナミ(エヴァイマジナリー)に突入、マイナス宇宙のシンジへガイウスの槍を届けます。
アスカ、カヲル、レイらの救済シーン。ガイウスの槍によるネオンジェネシスの始まり。ガイウスの槍でエヴァを貫き、自らを犠牲にエヴァのない世界を作ろうとするシンジ。"その役割をシンジから引き受けるために"初号機の中に残っていたユイと、ユイを見つけた13号機のゲンドウ。二人の邂逅の姿を最後に見ながら、新たな世界に移りゆくシンジ。
砂浜に残されるシンジ。絵柄が絵コンテのような、作り物の世界であることを示唆する演出を混じえ、迎えにきたマリが”間に合った"場面。
エンディング。現実の日本の駅ホーム内にいる大人姿のシンジ。カヲルとレイのような二人がホームの向こう側にいる。同じく成長した姿のマリがシンジを迎えに来ます。DSSチョーカーを外し、手を繋いで駅の外へ走り去る二人。
*1:著者の理解では、主人公の成長を通して表現される物語のハッピーエンドの形式、程度の意味。詳細は教養小説 - Wikipediaを参考
『ファクトフルネス』感想メモ、今のところ微妙
FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
- 作者: ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド,上杉周作,関美和
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2019/01/11
- メディア: 単行本
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イントロダクション、1章「分断本能」
気になったとこ
・レベル1が10億人?
低所得国に住んでいる人は世界の9%、と言った直後にレベル1の生活の人が10億人(世界人口70億として、9%を明らかに超えている数字)と述べる。
読者、少なくとも自分は混乱した。数字は細かすぎても困るが、読んでて混乱しない程度に正確にしてほしい。
低所得、貧困への質問は回答者のイメージに依拠しており、例えばレベル1(仮に10億人)のみを低所得とみなすのか、レベル1-3(60億人)を低所得とみなすのかで答えは変わる。後半の「上からの景色」でこの点も問題提起しているが、後出し感がする。
低所得や所得レベルの定義説明より前に読者への質問を投げており、筆者独自のカテゴライズで正誤を設定している。恣意的な印象が否めない。
回答選択肢の数が3つの正答率がランダムだと33%であることを示すだけなのに、わざわざチンパンジーにバナナ選ばせる意図は何か。サイコロでもなんでもいいはずなのに。
高学歴な経済専門家と比べて注意を引いたり、読者を挑発したりする意図も感じる。
・ところどころでにじむ論破厨な感じ
「でも、あなたは完全に間違っていますよ」「世界銀行と国連がまとめた、異論の余地がないデータです。わたしは正しい。間違っているのはあなただ」
-> 統計元を比較する、疑う、批判するとかの態度が薄そう。
4章、恐怖本能
このような化学物質の話は、エリートたちの酒の肴にされるようだ。その食べ物のせいで亡くなった人はいないのに、赤ワイン片手に「怖いねえ」と語ったりする。
-> エリート嫌いのポピュリストなの?って思われそうなのでわざわざこういう書き方しなくてもいいと思う。
・文章の構成に違和感
「テロ事件の数は世界中で増え続けている。しかし、レベル4の国に限っては、実はテロの数は減っている。2007年から2016年のあいだに、レベル4の国では1439人がテロ事件で亡くなった。しかし、その前の10年間には、4358人もの人がテロで亡くなっている。ちなみにこの期間には、2996人が亡くなった史上最大のテロ事件、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が含まれている。
それを除いたとしても、レベル4の国でのテロの犠牲者は、過去10年とその前の10年の間でほとんど変わっていない。一方、レベル1、2、3の国においては、...
」
レベル4の国でテロが減っていることを強調したい文脈で、911の数字を「除いたとしても」、という論理展開はおかしくないか?翻訳ミス?
しょーもない疑問から始める、Question Driven Learningを始めよう ~ 例題: 葉っぱのギザギザはなんであるの?
問題意識
弊社のグループやチームで、新しい技術を学ぶスピード、仕事に使えるだけの英語を学ぶスピードが遅い人が多い気がする。(自分のことは棚に上げつつ)
個人の能力の問題ではなく、学習方法や効率に問題があるのではないか?
楽しんで学ぶ、サステナブルな学習文化が身についていないんじゃないか?
という意識が常日頃からある。
何でそう思ったのかっつーと (前書き)
例えば英語を身につけたい人がいるとする。
参考書とか単語帳とかを買って、1日10とか100とかの単語をがんばって覚えようとする。なんちゃら英会話、を予約して1日30分しゃべってますとかしたりする。
ストイックな人ならそれを1年も続ければそこそこ語彙が広まると思うが、自分のように飽きっぽい人は3日も続けば良い方だと思う。途中で疲れたりつまんなくなったりしてさぼっちゃって続かないだろう。
一方で、友達の子供とかと話してるといつも圧倒される。
- 道にある見慣れないものを指差してはWhat's that ? Why ?
- なんで?どうして?
- これ作って!
- 遊んで!
- 遊んで!
- もっと!
の嵐。
でだいたいお母さんとかにいい加減にしなさい!って怒られるパターン。
相手をしていていつも思うのは、自分ではわかってると思っていたことでも半分も説明できない。説明したところで理解してもらえてるのかのFBも薄い。説明用語も限られるし、実は大人でもそもそもわかってないことたくさんあるなと痛感する。
でも一方で、本来の学習ってこういうことだよな、といつも思う。
結局何が言いたいかっつーと (序論)
- 疑問を大事にしよう
- 疑問を深掘りする技術を身につけよう!
そもそも知識を身につける順序として、
「欲求(英語を身につけたい)」-> 「学習(本を買う、読み書きする)」
という流れは、よほど強い欲求でない限りはあんまり意味ない、というか長続きしないんじゃないだろうか?継続する仕組みができてないんじゃないか?と常日頃から考えていた。
じゃあどういう学習だと長続きするの?
結論から言うと、疑問持ってそれを深掘りしてけば、知識は勝手に身につくはず。
例えば?(TL; DR )
葉っぱがなんでギザギザなのか?という疑問に興味ない人はここ読まなくてもokです
結論までスキップしてください
外でタバコ吸ってたら、いつもは気にならない葉っぱがなんか気になった。
どこにでもある普通の葉っぱで、小学校の裏門に植えられている。
よく見るとちょっとギザギザしてる。
* 以下青字は疑問
たいして珍しくもないが、なんでギザギザしてるのか気になったのでググって見た。
この記事を見て見ると、こんな感じ
* 以下赤字は知らなかった知識
「ペプチドEPFL」って何なのかそもそも知らないが、ギザギザと関係あるならちょっと気になる。
「鋸歯」、のこぎりみたいな形の歯。「きょし」って読むのも今知った。
EPFLとは、植物が持つペプチドの一グループで、最近見つかった物質
ペプチドって何?例のごとくググる。
2000年頃の高校の化学ⅠBの知識をちょっと思い出しつつ
全然ぴんと来てないが、要はアミノ酸と呼ばれる形の有機物が繋がる際の形の名前?らしい。上の図の左のOHと右のHでH2Oになって、そこがなくなると同時にCとNが直接繋がり(脱水縮合?)くっつくシステムのようだ。
葉っぱがギザギザなのなんでなん?を知りたいだけなのにどんどん脱線して関係ない知識が身について行く。。。
wikiから最初のブログの記事に戻るとこう書かれている
今回、シロイヌナズナのEPFLのうちのひとつであるEPFL2という物質の機能を知るため、EPFL2を作れない株(変異株)を作製して、普通の株(野生株)との違いが何か見られないか、詳しく観察しました。その結果、野生株の葉には鋸歯があるのに、変異株の葉は鋸歯の無い滑らかな形をしていることに気づきました。つまり、EPFL2はギザギザした形を生み出す働きがあるとわかりました。
やっと繋がった!EPFL2というペプチドの機能の一つとして、葉っぱをギザギザにする機能があるんじゃねーのかという説だった模様。
ここで納得して終われる人は終わってokだが、正直自分はまだぜんぜん納得してない。つまりどういうこと?
もうちょい読んでみる。
生まれたばかりの1ミリメートルに満たない小さな葉は、楕円形に近い単純な形をしているので、縁の一部が大きく出っ張るように成長しなければ、縁のギザギザは作られません。このとき、出っ張りの先端にだけオーキシンという植物ホルモンが蓄積して、先端部以外(裾野部分)ではオーキシンが蓄積しないという濃淡が生じます。
オーキシンて何よ
植物の成長を促す植物ホルモンで、ギザギザの先っちょにあるらしい。
どうやらこの記事は、ギザギザはどのようにつくられるのかという " How ?" には答えてくれたが、"Why?"には答えてくれなさそうだということにそろそろ気づく。
どうやら疑問のたて方にも問題があったようだ。
自分はWhyを知りたかったが、見つけた記事は
EPFL2のさらに興味深い点は、ほかの植物ホルモンのように、人工的に合成して投与できると期待される点です。たとえば、盆栽や他の観葉植物など、見て楽しむ植物や、レタスや水菜などの葉野菜にEPFL2を投与して形を変えることができるかもしれないと思うと、夢が膨らみます。
と言う感じで、工学的な観点でギザギザを産業利用することに関心があったようだが、自分はそもそもなんでギザギザなん?植物側からギザギザになりたがる理由あんのか?というWhyに近い疑問だった。調べ方がよろしくなかった模様。
新たに身に付けたワード、「鋸歯」の役割でググってみた。
木の葉には鋸歯があるものがありますが、鋸歯の役割はなんでしょうか。光合成の効率をあげるためであるという解答を良く見かけますが、それ以外にも役割はありますか。
... 中略【塚谷先生からの回答】
ご質問ありがとうございます。
一言でいうと、これは難問で誰も答を知りません。
まじかw
そんな難問だったんか
ごく近縁種の間でも鋸歯の形が異なっていることがあります。たとえば片方の種類は単純なギザギザの鋸歯、その近縁種は二重の鋸歯(重鋸歯という)を持っている、ということから見分けることがでできたりします。それでいて、両種の間で生えている場所がほとんど変わらない、混生しているというようなことも、よくあります。そういう例をいろいろ見ていると、鋸歯の形を種ごとにかたくなに守っている理由は、環境適応のせいとは思えません。不思議です。
ところが巨視的には鋸歯の有無と年平均気温と葉関係があることが知られています。化石の研究者の間では古くから知られている法則で、年平均気温が高いほどその地域に生える植物の中で、鋸歯が目立つものの比率が低くなるというものがあります。実際に現生の生態系でも、この法則が良く当てはまることが確認されており、化石の生まれた頃の年平均気温を推定するデータの1つとして使われるほどです。この理由は不明ですが、良い指標であることは確かです。
そこで古くから、葉の表面の温度を保つのに(冷えすぎないように、あるいは熱しすぎないように)するのに、鋸歯が何らかの形で関わっているという解釈が成されてきました。しかしそれにしては鋸歯の効果は微弱です。また上記のように同じ土地に生えていながら、鋸歯の有無に共通性の無いケースも見られます。
また鋸歯の先端にはしばしば、水孔というものが生じて、植物体内の維管束を通る余剰な水分を放出するのに使われます。この水孔がどれだけ必要であるかも、大事な要素という解釈もあります。これも関係はするでしょうが、それだけとは思いがたい面があります。
温度が関係しているかも?説。ギザギザで表面積大きい方が涼しそうな感じ?確かに南国の葉っぱとかギザギザしてそうではある。
さらに私たちのシロイヌナズナを使った研究から、鋸歯は植物ホルモンのオーキシンのはたらきで作られること、最初のうちはギザギザがはっきりしているものの、後の成長で次第に滑らかになったりさらに目立つようになったりすることが分かっています。
そんなことから、私たちは、鋸歯の形の多様性というものは、それ自身の形の多様性が大事なのではないのかもしれない、と思っています。むしろ、鋸歯形成に関わるオーキシンなどのさまざまな因子が、植物の体の他の部分でどれだけ必要かに応じて、それに引きずられてついでに形が変わっているという面もあるのではないか、と感じています。
一般論として、生き物の体の形は、必ずしも必然性からそうなっているとは限らず、特に良くも悪くもないので取りあえずそういう形を取っている、という事例が多々あると考えられています。
鋸歯も、ある程度は環境に対する適応や役目をもっているとは思いますが、細かな種間の差異に関しては、あるいはあまり特別な理由がないのかもしれません。
今後、若い世代の方々がこの謎にチャレンジしてくれることを期待しています。
塚谷 裕一(東京大学大学院理学系研究科)
一般論として大した理由なくてもまあそんな困らんからそういう形になっておるんじゃないかと。
最後は若い世代にチャレンジを期待すると。
若干モヤモヤは残るが、温度やどうやら東大の先生でもよくわからない難問だったということがわかった。
塚谷裕一 - Wikipedia 先生、ありがとうございました!
小まとめ
葉っぱは何でギザギザなの?という疑問から得られた知識
- ペプチド ( アミノ酸, 脱水結合 )
- EPFL
- 鋸歯
- オーキシン
- 鋸歯は周りの温度と関係あるんじゃないか説
- 鋸歯でもなんでも一般論として、大した理由なくてもまあそんな困らんからそういう形になっておるんじゃないかと。
- 塚谷裕一先生
まとめ
学習はこんな感じのステップを踏むと効率的なのではないか説
- 疑問を持つ ( 気になってモヤモヤする )
- 調べる ( 集中力と時間が必要 )
- 知識が身につきつつ ( 学習 )
- 疑問がスッキリする ( モヤモヤ解決して満足! )
所感
ギザギザの疑問持って写真撮ってこのブログ記事作るまでに、だいたい2時間くらいかかりました。
このステップのpros/consとしては
- pros
- モヤモヤスッキリ、知識たくさん身につく!
- cons
- 自分の中の疑問を見つけないといけない。
- 「調べる」ステップがハードル高いのかも?グーグル力とか化学ⅠBとか前提となるスキルが実はそこそこありそう。
- 時間と集中力が必要。
- 一つの疑問がスッキリすると、また新たな疑問が生まれがち(なぜなぜ無限ループ)
今後に向けて
最初この方法をCuriosity Driven Learningとか名付けようかとかぼんやり思いつつも、どうせなんとかラーニングとかData Analytics/AI方面ですでにあるんだろうなと思ってググったら案の定あった。
robotのラーニング方式の名前として既にCuriosity Driven Learningというのがある模様。
https://cmpe.boun.edu.tr/~emre/papers/ICDL2007.pdf
自分が言いたかったのは組織の学習効率をあげたいということなので、ちょっと日本語英語っぽくてダサいがQuestion Driven Learning(仮)という名前にとりあえずしとく。
個人ではなく組織でこのQDL ( Question Driven Learning ) を広めるためには
- 疑問を大事にしようぜカルチャーを作る。その疑問、大事だよ的な。
- グーグル力とか、辞書の引き方レベルの基礎スキルを伝える
- 学習するための時間と集中できる環境を確保する
- 学習した結果を発表させる(疑問 -> スッキリ!の満足感を個人から組織に伝搬させる)
みたいなのを、いかに「楽しく」できるかが大事なのではなかろうか。
健康のためにもっとワガママ言っていいんじゃない?
個人の健康と社会は繋がっている。
健康に関する社会の役割とは、医療や保険、周りのサポートという意味でも もちろんだが、それに加えて個人がもっとワガママになれるか、それを許容できる社会であるのかが鍵である。
自分の体からは、痛みや違和感などの様々なメッセージが出されている。それをキャッチするのはまず体の持ち主であり、他者は自分の異常を間接的に知るにすぎない。
例えばお腹が痛いであるとか、咳がでる、だるいとか、上司や同僚とのコミュニケーションにストレスを感じるとか。ふとした体からのメッセージを見逃してはいけない。そこを自覚できさえすれば、多くの病が発症するより前に防げるのではないだろうか。
しかし実際に多くの場合、そうはならない。なぜなのか、それは社会環境に一因がある。
体調が少し悪いがこれくらいなら会社を休むべきではないとか、自分より体調が悪そうなあの人ががんばってるからとか、自分のちょっとした違和感で他人に迷惑をかけるべきではないとか。
「がんばる」「努力」「立派」という社会からの評価のために、個人のストレスの抑圧や過度の自制心を見いだそうとする社会を美とする限り、個人の健康は達成されない。もっと気軽に、だるいとかしんどいとかのメッセージを発信し、そこを直すことに気をまわすことを許容すべきだ。
個人の健康のためには、もっとワガママを言えるようになるべきだと思う。
妻が亡くなって半年目の記録。忘れられない気持ちと、忘れようとする身体。
( %s/妻/ふみ/g )
半年前の今くらいの時間、ふみとの最期のLINEのやりとりが始まった。
今、少々複雑な気持ちを整理するために、ふみのことを思い出している。
こうやって意識的に思い出すといつも涙が出るが、普段の生活で思い出すことはあまりない。
もともとふみがいなくて当たり前だった時間や場所、たとえば仕事中や会社の人との飲み会、そこにふみがいないのは当たり前なので、そんなときに思い出すことはあまりない。
家に帰った時、一緒に入ったことのあるお店の前を通った時、デートしたことがある場所をテレビで見た時、寝る前。。。過去の思い出につながるとき、無意識にふみのことを考える。
しかしそんなときがあっても、最近は涙が出るほどつらくなることはほぼない。
そういったことを考えようとするとつらくなることはもうわかりきっている。「そういえばふみがあのとき。。。」と考え始めた瞬間、もう別の冷静な自分がその思考を邪魔しようとする。それを考えてもつらくなるだけだ、考えるな、と。そうしてふみのことを考える時間はどんどん少なくなっていく。
思い出したい自分と、忘れさせようとする自分がいる。
思い出すことがストレスになるなら、思い出さないことが「健康」で、「正しい」こと。極めて合理的である。
だからたまには、非合理的な、不健康な思考を外に出してみたい。そう思って今ブログを書いている。
# 記憶の仕組みについて
最近は論文や専門書を漁らなくても、ぐぐったらすぐそれっぽい記事が出てくる。
以下の記事はまだ出典が乗っているだけ(ほんの幾分)マシだが、何を根拠に書かれているのか誰が書いたのかわからない記事をすぐ引用するのは本当は避けたい。
2-7 忘れたいことを忘れる指示忘却
忘れるように努力することによって、特定の記憶をブロックすることは可能です。
必要なことは覚えておかないといけませんが、必要もないのにいつまでも覚えておくのは記憶効率が悪くなってしまいます。
また、積極的に忘れてしまいたい記憶というものもあります。
これも実験により、「忘れるように」と指示された事柄は、覚えるようにと指示された事柄よりも記憶の混乱が生じることが実証されており、意図的な忘却が可能であることがわかっています。
例えば、職場に行くと辛い経験を思い出すという人は、職場に行ってもその経験を思い出さないように努力することで、実際に思い出しにくくなるのです。
自分にとってのふみはまさにこの「意図的な忘却」にあたる気がする。
正直に言うと忘れたくないし、今でもふみに会いたい。必要か必要でないかと言われれば間違いなく必要な記憶で、ふみがいなければ今の自分はなかったと思う。
2-5 抑圧説
無意識のうちに不快な記憶を排除する心理メカニズムを「抑圧」と言います。
例えば中学生時代はいじめにあって暗い時期を過ごした人は、中学生時代の思い出をあまりもっていないことが多いのです。逆に、それ以前の幼少期のことはよく覚えていたりします。
人間は、思い出すことによって恐怖や不安などを感じさせる事柄を、意識から排除して自分を守ろうとするのです。
と同時に、ふみは自分にとって辛い記憶になってしまっている。ふみの存在が「不快」であるという説明には断固として反対するが、思い出すとつらくなることは否定できない。
こうやって自分がふみのことを抑圧してしまうことを、本当に申し訳なく思う。
# griefについて
大切な人を失ったときに起こる深い悲しみをグリーフと言います
■ 私たちにできることとは?
グリーフの過程で最も大切なことは、自分のグリーフを認識し、何らかの形で気持ちを表現することです。そのためにできる方法をいくつかご紹介します。
・定期的にスーパービジョン(※)を受ける
・日記をつける
・音楽やアートを通じて気持ちを表現する
・信頼できる同僚に気持ちを打ち明ける
・「自分のための時間」をつくり、好きなことをする
・健康的な食事、充分な睡眠、適度な運動を心がける
(※専門家からの支援)
自分は日常的にグリーフに接するようなプロフェッショナルではないが、プロフェッショナルグリーフに対する知見はとても参考になる。
日記を書くことはあまり習慣になっていないものの、たまにこうやってoutputすることは悪くないと思う。
# 孤独について
孤独であることがかっこいいという謎の価値観は、厨二病という言葉が今ほど市民権をもつ以前からあったようだ。
自分は孤独がかっこいいとは思わないが、孤独とは反対の「群れる」ことに対する嫌悪感はなかったというと嘘になる。大して興味ない話題に相槌を打ったり、組織の中で良好な関係を維持する必要があると言うだけで人に近づいたり近づかれたりするのは正直好きではない。ふみも似たようなところがあった気がする。
しかしながら、上記のような「孤独という病」を避けるためのリスクヘッジとして、浅く広い人間関係が有効であるという事実は認めざるを得ない。少数の人間だけと深い信頼関係を持つことは、そこがなくなってしまうと一気に「孤独という病」が襲いかかってくるという大きなリスクを負っていることになる。浅く広い交友関係を、少なくとも表面的だけでも身につけることを、「技術」として体系づけて教育する仕組みがあってもいいかもしれない。
妻を忘れたくない気持ち
ふみがいなくなって半年が経つ
ふみを忘れたくない
ふみが好きだった場所に行きたい
一人では行きたくない
ふみと一緒に寝たい
ふみと話がしたい
くだらない話や、真面目な話がしたい
ふみとゲームがしたい
ふみと家でぐだぐだしたい
ふみとデートしたい
ふみと旅行がしたい
一緒に漫画の感想を言い合いたい
自分の意見を批判して欲しい
変な服かどうかみてほしい
議論がしたい
一緒にでかけたい
ふみの好きなものを食べに行きたい
寒い季節に寒いところに行って、寒いねっていいたい
暑い時に暑いところに行って、あついー、っていいたい
一緒にいたい
やっぱり涙が出る。
TBSドラマ『わたしを離さないで』感想
・クローンが臓器提供のために作られ、社会生活をしているという設定はやや非現実的
・死を前にした人々の感情描写や諦感、行動にはリアリティーあり
・綾瀬はるかは普段あんまり好きじゃないが、ドラマ見てるとだんだんかわいく見えてくる不思議
・最後のシーンは見ていて辛くなったが、素直に感動した
・クローンに対する人権意識薄すぎ(=衆愚制を批判してる?)
時間あるときに追記予定。